というか、きちんと認識してくださいXPなんだから…
おかげでDVD-R1枚コースターになってしまいました。
普段から使っていれば気づいたのでしょうが…
CD焼く時はLITEON、DVD読む時はTOSHIBA SD-M1612使っているので冗談ではなく気づかなかったです。
時は流れてもすべての存在が劣化しない世界というのはどうだろう?
成長もしないが老化もしない。永遠に続く世界。そういう世界に住んでみたいと思わないだろうか?
それはある種の理想であると私は考えています。
私にとって世界とは私という主観が認識できる範囲のものであるので主観が消えるイコール世界が消えるということである。私にとっての世界とはその程度のものでしかなく、その程度のものでしかないので、私の存在しない世界など考えられないし。私のいない世界のために何かを成そうとも思わない。
理想とはそういうことである。私の死が私にとって世界の終わりであるので、成長も老化もしない世界というのは永遠の世界というわけである。
逆に、成長、老化する世界は有限の世界であるといえる。私は世界の終わりを願っているわけではない。しかし、永遠の世界を願っているわけでもない。「ある種の」とはそういうことである。
先日から鼻の調子が悪かったりしていたので、風邪かな戸思いながら放置していたらついに頭痛がするようになりました。熱は36.8℃しかなかったのでたいしたことはなさそうですが…
こんな体調でバイト行ったり試験受けたりするのは結構辛そうかなと。
LimeChatなどのツールは終了時に設定を保存しなおすようで…HDDの空きが5kbyteとかのときに終了すると設定がすべて消えます。気をつけましょう
たとえば、大切な人が事故で亡くなりました。事故を起こした相手は誠意を込めて謝罪してくれています。さて、あなたは慰謝料を「たくさん」貰おうとしますか?
事故を起こした相手が謝罪すらしないのなら純粋に怒れるので取れるだけ取ろうという気になるのもわかります。しかし、相手は精一杯謝罪してくれています。反省しています。それでも取れるだけ取ろうとするのは、亡くなった方を「お金」に換えているようにしか思えないのですよ。私には…
しかし現実にはよくある話だった利するらしいです。さて、表題に戻ります。「あなたは大切なものに値段をつけられますか?」
私には無理ですね。(大切なものがないというのもありますが)大切なものは何にも換えられないものです。
おざなりな謝罪の言葉と大金よりも、誠実な謝罪の一言のほうがずっと価値のあるものだと思います。それで許せるかどうかは別として…
誤ってもらって許せないのならお金をいくら積まれたって許せないものですよ。
ただ、最初からお金渡せばいいやと思っている人が相手なら、取れるだけ取ろうと思ってしまいますけどね。
あいも変わらず文章にまとまりが無い…こんなのでこの先大丈夫だろうか?
すべきことは何なのでしょうか?昨今、授業崩壊という言葉を耳にするようになりました。小学校低学年で、生徒が先生の話を聞くことができず教室を暴れまわったりして授業が成立しなくなるという現象をさすようです。
さて、原因はどこにあるのでしょう?
簡単ですね、その生徒に、子供を躾けられない親に原因があります。それを今の親は「躾も学校がやるべきだ」という考えを持っているようです。学校は「集団生活」の場であり、最低限の躾は「されていて当然」なはずです、にもかかわらず親はそれを学校に求めています。
それでいて、躾をするために軽く叩いたりすれば「暴力教師」だの何だのと喚き散らす始末です。このような連中に親が務まっているとは思えません。
以上のことから私は、「親権」をもっと考えるべきだと思います。
いっそのこと試験のようなものを作って、親になる資格をつくるのもよいかもしれません
「人にはやらなければならないことがある。それは友のため。それは大切な者のため。それは恋人のため。
何かをやらなければならないと分かっているのに、何もしようとしない人は、人として最低である」
こんな言葉があるそうです。これは私の考えとは合わないですが、その心は大切であると思います。やらなければならないことをやらないのは、やはり駄目な人間なのではないだろうか…
私は「他人のため」と言って何かを成そうとしている人間は信用しません。それは結局逃げにつながるから…
あくまでも自分のために何かを成すべきだと思うから…
何をすべきなのだろうか?
「後悔しない行き方をしろ」とはつまり、今を好き勝手生きろということなのでしょうか?今、後悔しない行き方をしたとして、それは傍から見るとどのように映るのでしょうか。先述したとおり、好き勝手に生きていると映る気がします。なぜなら、「そのとき」後悔しないようにするということは、そのときにやりたいと思ったことをやる可能性がもっとも高いからです。
こんなことを書くと変に思われるかもしれませんが、結局はそういうことなのでしょう…「長期的に見て後悔しない生き方」など、先を視ることのできない普通の人には無理ですから。
普段うるさい人に限って回りがうるさいと怒鳴るのはなぜだろうか?
私もうるさくしてしまう方なのでその人に対してとやかく言う気はありません。そんなことをしたらそれこそその人と一緒になってしまいますからね…それはともかく、なぜ「たまたま自分が静かにしているから」文句が言えるのか不思議でなりません。それでいて、自分がうるさくしているときに注意されると文句言うし、まぁ、そういう妙な人も世の中にはたくさんいるのですよ。
あくまでも私の主観ですが、「他人のため」というのは自己の行動に対する免罪符なのではないかと思います。私は、自分が正しいと思うことを自分の責任においてやることはいいとおもいます。それが法に触れる行為であったとしても…法なんていうものは所詮、人々が集まって生活するために守ったほうが便利「かもしれない」ことであると思うので、必ずしも守る必要は無いと思います。ただし、あくまでも自分で責任がとれる場合です。「他人のため」と免罪符を掲げて法を破るのは許せません。あくまでも「自分の信念」で行動してもらいたい。
「他人のため」に何かする人を信用しない理由もここにあります。
小説などのレビューを見ていると、伏線という言葉がたびたび出てくる。凝った小説では伏線を大量に張っていたりしますが、それは読者側が「伏線である」と判断して読み進めて行くものなのだろうか…?
どちらかというと、漠然とした「疑問」として残っていき、それが後々になって解決していく、そういう類のものであるべきなのではないだろうか?
そうするためには、作者脳でもそうだが、読者が伏線をわざわざ探したり、そういうことをするのも小説の面白みを減少させる要因かもしれない。
伏線うんぬんをまったく考えずに読み進めていって、最後に話が1つにつながったときの感動と、「これは伏線だな、作者はこれをどーやって使うのだろう」などと考えて読み進めて言ったのではそこに生まれる楽しみはぜんぜん別のものになってしまうのではないだろうか
一番いいのはおそらく「伏線」に気づかないことである。
高位次元生命体に…死という概念は存在するのだろうか?
時の流れの上にいる者達に時がたつという感覚が我々と同じとは思えない。つまり、寿命という概念自体が我々とは異なるはずである。
死とは時の流れの中にあるものだと私は認識しているので、時が、寿命が我々と異なる概念である高位次元生命体にそういう意味での死という概念があるのだろうか…?
ということで一応終わりました、Ever17。
内容について触れようとするとネタバレにつながるという理由がわかりました。
結構濃い内容ですね…面白いといえば面白いのですが、同じ文を何度も読むことが嫌いな人にとってはやや苦痛かもしれません。しかし、それを差し引いてもよい作品と言えるでしょう…
こういう作品もミステリーと呼んでもいいのでわ?
高位次元生命体の話について…
ここで触れている話は、高位次元生命体とは四次元以上の生命体であり、4つ目の次元が「時間」であると仮定してのお話です。
4つ目の次元が時間ではなく、空間であった場合は話が変わってきます。
書いていた日記を間違って消してしまいました…
平行世界について、
平行世界というのは無数の可能性の一つだといえます。「あのときあの選択をしていたらどうなっていたのだろうか?」その選択をした世界こそが平行世界です。また、そうと思わずに選択をしている場合も多々あります、そのとき、今の「主観」によって選ばれなかった方が「平行世界」とよばれるものになって行きます。そういう意味で、「平行世界は無数に存在する」と言えるでしょう、ただし、あくまでも「主観」が存在してこその平行世界なので、「主観」が存在する以前の平行世界はありません。つまり、世界は「主観」ごとに存在するともいえるでしょう。つまり、それは「主観」が消えるとき、世界もなくなることを意味します。
従って、死とは「主観」の消滅を意味し、世界の終わりを意味します。
こんな日記が戯言だというツッコミは無視するとして、
構造化プログラミングという技術があります。
構造化プログラミングによって書かれたアルゴリズムを説明するための方法として、PADというのがあります。他にもいくつかやり方はありますが、私の先生はPADが好きなようです。
それはともかく、これが書くのが非常に面倒くさいのです。
まず、正規分布乱数を作り出す関数を作ったとすると…
そこはPADではサブルーチンと呼ばれるものになります。
それで、正規分布乱数を作り出す関数には数式が1つ書かれているだけなのですが、これを「日本語」で表すことが私には出来ないです。
さて、自分の行き方に自信を持っている人が世の中にどのくらいいるのだろうか?私はいつも行き方に不安を抱いています、しかし、齢18にもなると今更歩く道を帰ることが出来ないのです。妙に考えがひねくれているせいか、今の行き方に不安を抱えつつも他の行き方が想像できない、そんな状態です。
強さとはなんだろうか?弱さとはなんだろうか?
私は自分を弱いと感じていますが、他人の目から見たらそうではないのかもしれない。「弱さとは相対的なものである」こう言ってしまうのは簡単ですが、相対的に強いと思えるならばそれは弱いことなのかもしれない。つまり、比べる何かが無いと強いと思えないということだから…では同様に、相対的に弱いと思っている場合は弱くないのか、いや、これも弱い、すなわち、他のものと比べようとすること自体が弱いものの考え方だからである。
では他者と比べずに「私は強い」などと言える人はいるのだろうか?いるかもしれないしいないかもしれない…しかし、いたとしても圧倒的少数だろう。
何か起こったときに、それをプラスに考えるかマイナスに考えるかというのは、その後の展開に大きな影響を与える。しかし、どちらに考えるかというのはその人の特性なので意図的に操作することは不可能である。よって、その後の展開もどちらに転ぶかは決まっているといえるだろう、そうして考えると、「運命」といえないだろうか?
所詮何かの上であがいているに過ぎないのではないだろうか?決まりきった道の上を、さも自分で見つけたかのように歩いているのではないだろうか?
こう考えると、あがいても無駄ということになる。また、運命を信じて自己の鍛錬を怠ることもまた運命と考えることが出来る。つまるところ、「運命」だから仕方が無いとあきらめることもまた「運命」なのではないだろうか?
「自分がされて嫌な事は他人にもするな」そんな言葉があります。私にとってされて嫌な事は「信頼」です、よって私は他人を信頼しません。嫌な事は「信用」です、よって私は他人を信用しません。正しいかどうかはともかく、私の信条です。他人に信頼されたり信用されたりするのはとても辛いです、他人と深くかかわりたくないのでなおさら…
バイトが夜にあるのでレポートを昼間に書かなくてはならないのだけれど、全然やる気がでなくて困っています。いままで暗くなってから作業していたせいで、暗くならないとやる気にならない…
しかし、暗くなったらバイトがある
さーどうしよう?
日記を利用して、いろいろ公開しようと思うとどういう風になるだろうか?
たとえば、BMS段位認定mirrorみたいな…
しばらくすると新しい日記に埋もれるので時限公開っぽくなっておもしろいかもしれませんね。
「生きること」とは「奪うこと」である。生命を生かすためには他の生命の死が必要である。さて、これは確かに真実であるが、奪わずに生きているものも存在する。しかし、それとて恒星の寿命と引き換えに生きていると考えられなくは無い…つまり、「奪うこと」は悪いことではないということである。「必要ならば」奪ってもよい。
ここで「必要」というのは生きるために必要不可欠という意味の必要である。つまり、食料が何も無く、そばに人間しかいなければ、人間を殺して食べても何の問題も無いのである。
生と死は表と裏であるという考え方があるけれど、私はこの考え方には否定的です。生と死は隣りあわせであると考えています。生と死は対の存在ではなく、まったく別の似たものであると考えています。
それは、生を死と切り離して考えられることからもうかがい知れます。本当に対の存在ならば、同時に考えるべきで、同時にしか理解できないはず…
では、死を考え、理解することは出来るのでしょうか?生を考えずに死を考えることはとても難しいです。そういう意味で「隣」にあるのではないでしょうか?生のほうが先にあって、後に死が並んでいる…そんな感じだと思います。
今日から母様が2泊3日の研修に行ってしまったため、家事全般が私の肩にのしかかっています。その上今日も今日とてバイトです…
せめて父様が動いてくれればいいのですが、ちっとも動いてくれないのですよー。何とかなりませんかねぇ
いい加減どうにかしないといけないな…と思ってはいてもどうにも出来ない現状。とりあえず生活リズムを戻さないと死ねます、この土日が勝負かな
日常です。こういう日常の中にこそ求めるものがあるのかもしれません…何を求めているのかはともかく
「なんでもない日常の先に未来はあるのさ」ということらしいです。私の日常は睡魔との戦いの歴史です。大体負けるんですけどね、やはり仕事するようにならないと勝てないのかなと思ってみたり…
最近やりたいことがなくなってきました。やりたいことをやりつくしたのではなく、やりたかったことがどーでもいいことに変わっていってます。これは非常にやばいのではないかと自分でもおもっているのですが、いかんせんやる気が無くなっていきます。さて、どうしたものか…
生きる理由がなくなりそうです…かといって死ぬ理由もありませんが。
こうなると、日々惰性で生きているようなものです。はっきり言ってつまらないです。私みたいにならないようにしたほうが生きることが楽しいですよ…もう遅いかもしれませんが。
久しぶりにwinampのskinでも作ろうかと決意しましたが、どうも乗らない。やる気が出ない、そこそこよい素材もあるのに…やはり向いていないのだろうか?まぁ、無事出来上がることを祈ろうか。
生活リズムが乱れたまま新しい週に突入です。また学校で寝る日々が始まる予感がします。今眠くないし…
まぁ、もうすぐ夏休みなので、休み明けにリズムが戻っていればいいかなと適当なことを考えています。まぁ、後で苦労するのは私だし別にかまわないかなと。
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